建築思考整理

無責任と適当な感想

住環境について 20220403

3年に上がるにあたって、一人暮らしを始めた。大学の近くのワンルームに引っ越した。必要なものは全部買った。足りないものは頑張って買い足した。やることなすこと、全部自分の責任。やりたいときに、やりたいことをやろう。がんばりたくないときは、さぼっていればいい。全部自分に、いつか返ってくること。

 

充実した設備ではない。まず、うちは冷蔵庫置き場がない。キッチンはとっても狭い。3口コンロに慣れていたから、今はかなり苦労して(と言っても想定以下だが)料理をしている。でも、ここにきて一つ感じたことがある。

 

なんにでも手が届く生活って便利である。コンパクトにパッケージングされた暮らしは非常に居心地がよく感じる。むかし、立体最小限住宅やカプセル型の住居で提案されたような、パッケージされた暮らしが、形態こそ違えどここにある。余裕もない、ぜいたくさもない、しかしある意味で完成された暮らしの場である。

 

設計職について、利便性の高い住居を作りたいとずっと夢見てきた。だが、利便性というのは、結局コンセントの数や位置とか、細かいところに現れてしまうものだ。これは設計のなせる業であるが、多くの人がやりたい設計とはかなり異なったものだろう。間取りとか、造作とか、そういう話は一度置いておいて、結局テンプレートにのっとった住居が利便性が高いことを、私は知ってしまった。

 

結局設計者に求められることは付加価値なのだと思う。個性のないアパートに住む人が家具やポスターで個性を出そうとしたり、そのような次元の話を設計段階にまでさかのぼって持たせることが求められるのだろう。家は一生ものの買い物であると同時に、一点ものであるということは、その言葉の上っ面だけではなく、自己表現としての住居の役割を端的に表したものなのだと、しみじみ実感する今日この頃である。

 

(寸法感覚とか、配置とかが素晴らしいことが居住性に直結することは十分に理解したうえでの見解です)