建築思考整理

無責任と適当な感想

リアリティとは 20220207

空想と実現性のはざまで

卒業設計が終わった。といっても、私はほんの少しのにぎやかしをしただけなのだが。というかまだ二年生ですし。そして、その中で感じた実現可能性とは何か・リアリティとは何かという話に自分なりの、現時点の意見を記しておきたい。そう思い執筆している。

卒業設計とは、究極の妄想行為であると思っている。というか、建築学生の設計課題は、実際に立つことがないという意味では、すべて妄想行為である。そのすべての妄想行為の頂点に位置する卒業設計こそが、究極の妄想行為である、と。妄想行為は物理に支配されない。20メートルスパンのRC大梁だって、(さすがに怒られるとはいえ)空想の中に存在し得る。逆に言うと、どんなにリアリティを求めても、仮にすべての部材表・納まりの図面を作ったとしても、それは妄想にすぎないともいえる。

ぶっ飛んだ妄想は無駄な行為か

建築が目指す先は物理である。学生時代に積んだ多くの妄想の経験が、いつか構造も持ち、マテリアルを伴い、衆目の目にさらされ、使われ、何らかの体験をもたらし……。多くの人が漠然と描く未来はこんな感じだろう。では、最終的に物理的な空間に落とし込まれるのならば、リアリティのない、極端な提案は無意味なのだろうか。

大衆迎合的になるということ

リアリティの評価軸は、過去である。建築の場合、当然だが前例はすべてリアルに存在している。リアリティを求めることは、すなわち過去へとらわれ続けることを意味している。昔のぶっ飛んだ人たちが作ってきた多くの実例を踏襲し続けていては、進化や発展は望めないだろう。今、多くの人が当たり前のように設計しているRCのビルだって、コルビュジエが始めた時は奇異をもって迎えられたはずだ。クリスタルパレスが建った時は、崩れる不安から大規模な実験を行ったとも聞く。今、京都駅のアトリウムが全部崩落するなんて思っている人は誰もいない。ぶっ飛んだ行為は、次世代の当たり前を作る力を大いに秘めている。

安易さが見えてはいけない

何をやってもよいかといえば、そうなのだろう。しかし、空想的なものにしても、そこに明確なストーリーがなければ、説得力に欠けてしまう。独りよがりの妄想で進むことが出来るのは、頭の中だけである。「貴方にはわからないだろう」という意識の下で作られたものは、本当に誰にもわからずに終わってしまう。うまくリアリティとのバランスを探りながら、二年後の卒業設計に臨めたらよい。