建築思考整理

無責任と適当な感想

意味付け、流動性 20220123

先人の偉大さを知ること

世の中のあらゆるものが、何かしらの意味を持っている。プロダクトなら、これまでの意見や経験を踏まえて、若しくは工業的な生産性、コストまでを含めた最大公約数の上に成り立っている。ここに疑問を持つならば、そしてその疑問を本気で解決し、社会生活に還元する気持ちがあるならば、大量生産されるものに対して改良を加えなければならない。ただし、それは容易なことではない。先述のとおり、すでに意味にあふれ最適(と思われるかたち)を取っているものに対しては、安易な提案は跳ね飛ばされてしまうからである。

目的通りの使われ方

狙った通りの使われ方をされるようにデザインするのがデザイナーの役目ならば、もっと余白を残したデザインがあったっていい。白紙のノートを使用者が自由に利用するような、そういったかたちの。だが、これがデザインによって成し遂げられているかというと、必ずしもそうではない。不便なもの、気に食わないもの、すでに不要になったもの。これらを有効活用するために、我々は様々な創意工夫を凝らしてきた。でっぱりがあれば何かを取り付け、穴があればパッチワークのように補修される。そうしてできた統一性の無い、一見すると汚いものが、非常に魅力的に感じられる。だが、これを誘導することは大変難しい。何より、誘導されている時点でそれは想定内であり、意外性や生命力を持たせることが出来なくなってしまうからである。

デザインの必要性

ともすると、何かをデザインすることの必要性自体が問われてきてしまう。必要性はないにしても、デザインで想定されるあれこれが、偶然のパワーを持った何かに対して上回らなくてはならない。だが、果たしてそうだろうか。

昨日の公演を聴いて最も深く考えていたのがここである。私なりの解釈では、変化するあれこれに対して小さく手を加えるという行為が、自分の求めているデザインなのではないかと思う。完成品をデザインすることにとらわれすぎていた。使う人(この場合、かかわる人の方が適切かもしれない)をよく見て、その場その場でバージョンアップするような、真の有機性を持ったデザインとは何かということを、しばらく考えてみたいと思う。